LINEMAN NETWORK特別インタビュー
WE ARE LINEMAN Vol.3
鈴木重樹
株式会社きんでん
Shigeki Suzuki
1962年7月生まれ。大阪府出身。1981年に入社。2014年マスターラインマンを取得。
Q.大事にしている言葉や格言は?
若い頃は「一生懸命」。
今いつも頭によぎるのは「感謝」ですね。
Q.若きラインマンへひとこと
若い頃先輩たちに厳しく教わってきたことが、今の自分の土台となっている。根っこがしっかり張れていると、色々な環境でも育ち、肥やしになって、10年20年先の力の源になるんじゃないかな。
Q.初めて行った現場は?
富山の黒部にある、黒四ダムの補修工事でした。厳しい中で先輩たちが登っている姿を見て、わあすごい、格好ええなって思いました。
Q.ずばりマスターラインマンとは?
業界の中ではそれなりの技術力の持った人が取らせてもらえるという感覚が皆あるんやな、と感じています。
Q.現在のお仕事内容は?
60で定年を迎えてからは、現場を離れて新入社員教育をしています。西宮の「きんでん学園」で実技の教育と現場の応用実習に携わっていますね。
Q.仕事をする上で心掛けていることは?
お互いのコミュニケーション。
相手に言われたことは必ず復唱したいですね。あとは現場が朗らかになるならみんなが笑いそうなことは率先してしたいです。
株式会社きんでん
二之宮勇樹
Yuki Ninomiya
1975年生まれ。鹿児島県出身。1993年に入社。2023年マスターラインマン取得。
Q.会社のいいところは?
福利厚生がちゃんと充実しているところですね。
Q.記憶に残っている現場は?
滋賀の伊吹山の下の方でやる碍子交換の仕事。冬でロープも何もかもカチコチだし、碍子もツルツル滑って。手袋を外して素手でみんなで直したのを覚えていますね。
Q.若きラインマンへひとこと
がむしゃらに仕事をしてじゃんじゃん覚えてこそ、次のことができる。自分から積極的に「こうやりますよ」と意見を言ってくれたら、「間違ってもやってみな」と思えるし、成長していけると思う。
Q.ずばりマスターラインマンとは?
特別偉いというわけではないですが、ラインマンの中で技術が卓越していて、人よりもちょっとは知っているということかな。
Q.大事にしている言葉や格言は?
ここの仕事は一人じゃできないので、「協力」ですね。協力してみんなで仕事を成し遂げたいです。
この仕事のいいところは?
鈴木
張り終わった送電線に夕日がパーっと当たる姿は感動もの。
僕ら建設会社の人間というのは、物を作った時に喜びを感じて感動しますよね。時々車を走らせると「ああ、ここをこうして線張ったよな」と、感慨深くなります。
二之宮
鉄塔の上にのぼるので、景色がいいですよね。
道ゆく人に「ご苦労様です」とか「ありがとうございます」と言ってもらえた時は、やっていてよかったなと思います。
街中でやった仕事は、自慢できる感じがします。
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はじめに、自己紹介をお願いします。
鈴木さん
はい。株式会社きんでん・電力支社 送電工事部の鈴木です。よろしくお願いします。
二之宮さん
株式会社きんでん 二之宮勇樹です。
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きんでんさんでは、鈴木さんはどのような立ち位置で、どのような仕事をされていますか。
鈴木さん
僕は2年ほど前に60歳で一応定年退職ということで、今は嘱託で雇用されているんですが、定年してからは現場からは離れて、今は新入社員教育ですね。
毎年4月に新入社員が入ってくるので、我が社は西宮に「きんでん学園」という学園がありまして、そちらの方に4月に入社して7月の半ばまではそこで送電線に従事される新入社員の実技の教育を担当させてもらって、7月16日から今度は現場の応用実習ということで、一緒に実習生について指導をする。そういう立場で今仕事をさせてもらっています。
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「きんでん学園」というのは専門学校のようなところなのですか?
鈴木さん
会社の学校というか、教育機関なんですけど。
配電(外線・内線)や一般工事などと色々あるので、入社して入ってきた子がいろいろ振り分けで、その専門の実技・学科両方の教育を受けて、資格を7月までに取れるものは取って、現場の方に送り出して実習をするという形をとっています。
1年半教育して、翌年の9月16日付けで各支店に配属という形で教育をする、そういうシステムをとっているということです。
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はじめて耳にしました。
株式会社きんでんさんでは、きんでん学園で先に基礎的な勉強も全てしてから、現場に向かっていくということですね。
では次に、二之宮さんは、どのような立ち位置で、どのような仕事をされていますか。
二之宮さん
今は送電線ですね。送電線の張り替え。
40年、50年経ったものがあるので、張り替えたり、鉄塔の建て替えをするような仕事をやっていますね。
今は飛騨高山の裏側の山で、それこそ鉄塔建て替えと張り替えで新しい線に張り替える仕事をやっていますね。
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ありがとうございます。お二人ともマスターラインマンという称号を得ておりますが、マスターラインマンとはどういうものだと思われますか?
鈴木さん
マスターラインマンというのがどういうのか…というのは、僕自身もちょっと(笑)。
ひとつ、同じ業界の他社の方でちょっと知り合いがいまして、その人とちょっとお話しさせてもらった時に「鈴木さん、マスターラインマン持ってますよね!」と言われて。さらにその方の知り合いの方を紹介してもらった時に「この方、マスターラインマン持っているんですよ」と紹介されて。
その時に、自分自身はそんな感覚はなかったんですけど、やっぱり業界の中ではそれなりの技術力の持った人が取らせてもらえるという感覚が皆あるんやなと感じさせてもらいました。
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そうですね。培った技術力と判断力、全ての総合面で通常のラインマンの方よりも経験もある、そういう立ち位置なのかなと。素晴らしい制度だなと思っております。
二之宮さんはいかがですか?
二之宮さん
僕は去年(2023年)いただいたんですけれど。みんなラインマンとして仕事をしているので、その中で技術やら何かが卓越したというか、覚えているというか。そういうのを人よりもちょっとは知っているというのがマスターラインマンかなと。
僕がまだもらえるものではないかなとは思っていたので、正直。
もらったからと言って別に偉いわけではないし、だからみんなと一緒に協力し合いながらやれればいいかなという考えではいますね。
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この制度が将来的にも若手の方にも仕事をやっていく上で目標になるんじゃないかなと思います。
鈴木さんが今の仕事を始めるきっかけはどのようなことだったのですか?
鈴木さん
正直言いますと、「ラインマン」ということは全然知らずに入社しました。
関西だったので、学校の方に求人が来て「きんでん」というところがなかなか関西の中でも優秀な企業だったので、自分的にもええかなと思って。送電線というのが全然分からんずくに入社させてもらったというのが正直なところなんですけどね。
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入社されていざ仕事が始まった時の、初めて入った時の気持ちは何か覚えていらっしゃいますか?
鈴木さん
僕の時もきんでん学園に入るんですよね。
割にその学園生活っていうのが厳しい。僕らの時代は特に。
初代の学園長というのが、海軍の士官学校を出られている方で、要するにそういう軍隊的な教育をということで。6時に起床して、上半身裸でランニングをしてきて、腕立て、腹筋など、そういう基礎的な教育・体力作りをして。
当然、寮の中での生活なのですが、僕らが入った時は洗濯機がないんですよ。洗濯板で洗濯させられるんですよ。それってなんでかと言ったら、「今まで君らが親にそうやってここまで育ててきてもらって、洗濯も何もかもしてもらっていた。
その親の気持ちを自分で分かりなさい」ということで、「ああ、親ってこんなにありがたいんやな」と。そういう心の教育もきんでん学園というところはしていたんだなというのを感じさせてもらった。
寮の生活は大変厳しかったです。今から思えば、そういうことがあったから今に繋がってるのかなと。
だから最初に入った時は、送電線がどうのこうのっていうより、その学園の生活、それがもうつらかったですよね。
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すごく大変だったんですね。
そこからずっと今でも仲間という方はいらっしゃったりするのですか?
鈴木さん
僕が入った時は6人入って、送電線に携わっているのは僕一人だったのですが、途中で辞めていったのと、他へ配属していったというところもあるので、残っているのは一人なんですけど、違う部署に行った子らとも交流はあります。
それから、いまだにやっぱり学園に入った同期というのは結構仲が良くて、全然違う部署なんですけど年に一回か二回みんなで会って話をすることはありますね。
そういう意味で今までずっと残ってきたっていう仲間というのは、僕らの世代は強くあります。
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昔からの仲間は大切ですよね。
二宮さんはどのようなきっかけでこの仕事を始められたのですか?
二之宮さん
僕は元々地元が九州なので、もうこっち(関西)のことは全然分からなかったんですけど。
求人票を見て、どこかいいところがないかなと思ったら、大阪で完全週休2日でご飯もついて、入った時に研修旅行がアメリカであるというのもあって、ただそれに食らいついて入っただけで(笑)。仕事の内容は全くほぼほぼ何も分からず入ってきたもんで。
高校が元々が農業高校で、電気とは全く関係ない高校だったので、何をするかも分からず入ったというのがきっかけで、さっぱり、0からのスタートで。
のぼるやら、電線やら、全く分からない状態で入ってきましたね。
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”厳しさ”は年々落ち着いてきているような気がしますが、二之宮さんの時はどうだったんでしょう。
二之宮さん
うちらが入った時も裸でランニング。郊外を回って戻ってきて腕立てとかはありましたね。
やっぱり何年かしたら、世の中の目もあって、今度はシャツを着たりとかになってきているとは思うけど。今は外も走らないみたいだし。
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アメリカの研修旅行は行かれましたか?
二之宮さん
行きました。 言っていいか分からんけど、当時、旅行目的で入って、旅行行って辞める人も多かったですね。
鈴木さん
僕らは国内でしたけどね。
ちょうど二之宮君らの頃はバブルの終わりかけぐらいの時でしたからね。会社のイメージみたいなところで、ちょっといい人材を…といったところじゃないですか。
二之宮さん
僕の後2、3年してから、もう国内に変わって、後輩の人から「こちらは国内でしたよ」とか文句言われる時はあるんですけど(笑)。
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どんな研修だったのですか?
二之宮さん
研修というよりはほとんど旅行でしたね。
ディズニーランドに行ったり、ロサンゼルスとかヨセミテに行ったりとか、そういう感じの研修だったので。みんなそれ目的で入ってくる人が多かったんじゃないですかね、昔は。
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厳しい時も、厳しくなくなっていく時も多分お二方は見ていらっしゃるので、それぞれの善し悪しは感じているんだろうなと思います。
そういう意味で、色々な角度で色んな方に接してあげられるというのは、マスターラインマンのお仕事にも繋がってくるのかなと思いました。
次に、鈴木さんが初めて行った現場はどういったところだったのでしょうか。
鈴木さん
僕が初めて行った現場というのが、黒四ダム。
富山の黒部にある、あそこから出ている送電線の補修工事だったんですよ。
黒部の山の中に関西電力さんの宿舎がありまして、一般の人は泊まれないんですけど、そこに寝泊まりして、黒部の立山の山、そこへ走っているルートの補修工事に携わったのが初めての現場でした。
その時はさすがにすごいなという、そういうイメージで従事はさせてもらいました。
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割と鮮明に記憶に残っていますか?
鈴木さん
残っています。初めての現場がそういう現場だったので、ここら辺の町の中とかそんな んじゃなく、黒部の山のあの中に建っていた送電線の補修工事だったので。
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すごく大変だなあという瞬間もありましたか。
鈴木さん
それはもう僕、入ったばかりなので、鉄塔ものぼらせてもらえなくて下回りだったので。
荷物の運搬、当然山の中なのでヘリ運搬だったんですよね。そのヘリの荷物を上げ下ろしするところまで物を運搬しないとあかんのですけど、当時は山に荷物を持って上がる方も雇っていたけどそれだけじゃ追いつかないので、自分らが荷物を背負って山を歩いたのはつらかったですけどね。覚えていますね。まだ体も慣れてないところもあるんですけど。
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ちなみにその現場で良かったと思ったところはなんですか?
鈴木さん
ちょっと普通の人じゃ経験できないようなところで。初めて自分もそういうところへ行かせてもらって。
厳しい中で先輩らが登っているその姿を見て、わあすごい、格好ええなっていう、そういう思いにはなりましたよね。
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二之宮さんは初めての現場を覚えていらっしゃいますか?
二之宮さん
初めては岐阜の山、根尾村ですかね。
根尾村にある奥美濃岐北線で、そこの宿舎が小学校か中学校の廃校を利用したところで、それこそきんでん学園に入った時の夏の実習で初めて泊まったところがその廃校のところでした。
寝泊まりするところがそこの体育館。
うちらが入った時は6人いたので、6人そこの体育館で寝泊まりしていたのは覚えていますね。
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初めて入ったそのお仕事で、「続けられそうだな」とか、よかったなと思うことは。
二之宮さん
ああ、まずないですね(笑)。
なんせ山の中で…コンビニもその時ないし、スーパーかどこか行くのにも車で30分行かないとなかったから。廃校の跡のところで食べたりしていたので、いい思い出は大してはないです。あとは山登りとかあったんでね。
現場がほぼほぼ山なので、もう山歩いてそれの往復で。入った時は穴掘りばっかりだったから、基本的に。穴ばっかり掘っていたので、いい思い出はほぼほぼないですね。
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そうだったのですね。おふたりにとって、これが一番記憶に残っているという現場はありますか?
鈴木さん
僕自身一番っていうのは、福井県の美浜原電から出ている送電線の建て替え工事をやったんですけど、それはちょっと工期的に厳しい工程で、そこで現場を持たせてもらった時に、ちょっと良かれ悪かれ、それはもう一番辛かったのは辛かった。
工期が短いというのが一番ネックだったんですけどね。で、色んな電気屋さんに来てもらって、結構最盛期の時100人以上の電気屋さんの中で、そこの現場を持たせてもらって、いろんなところで気配りやらがあったんで・・・。
今から思ったらやりがいがあったんですけど、やっている最中はもう無我夢中で。辛い思いも何回かしたこともあるので。
二之宮さん
鈴木さんの現場は、みんなは雨で中止しているのに、僕だけ他の応援の人を回されて昼まで雨の中、山のぼってやったの、覚えていません?
半日雨の中うちらだけだったんですけど、雨の中やっていたら「みんな終わってるよ」「朝から雨やから中止〜」って。うちらだけ昼までやっていて。
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二之宮さんの記憶に残っている現場は?
二之宮さん
それこそ中越地震の時が残っていますね。
あの時、ちょっと冬が近かったので、最後ダンパーを付けるのが手がかじかんじゃってというのもあったし。
あとは碍子交換っていう作業ですかね。
それが滋賀の伊吹山の下の方でやる仕事で、冬だったんですけど、もうロープやら何やらが全部カチコチ固まってる時に「え、今日やるんですか?」みたいな。
その時の親方は「やるよ」と言って「え、マジすか!」って。完全にバナナを冷凍庫で凍らせたようなあんな感じになっていたので。
それで碍子交換したんですけど手でやらないといけないんですよ。それがもう絶対回らない。ツルツル滑って回らないんですね。その時みんな必死で、手袋外してでもみんなで直したのは覚えていますね。
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やはり天気に左右されるお仕事ですよね。
ところでお二人が仕事で心がけていることとか、例えばゲンを担いでいることなど、何かありますか。
自分の仕事としてこういう信条でやっているようなことがあれば、教えていただきたいです。
鈴木さん
僕もどっちかというと信心深いので、現場のそばにある神社やらそういうところには手を合わせたり、機会があれば。
二之宮さん
僕は特にはないですね。
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仕事上で、例えばよく言う「報告連絡相談(ホウレンソウ)」とか、こういうところは仕事で大事にしているよとか、心掛けていることは何かありますか。
二之宮さん
とりあえず挨拶をするようになりましたね。
昔はあまり挨拶をしていなかったので、入った当初は。結構先輩から「あいつなんやねん」みたいに思われていたと思うんですけど。
朝があんまり強くなかったから、フンフンフンフンみたいな感じで(頷いて)やっていたんですけど、今は成長したので挨拶は自分からでもするようには心がけていますね。
鈴木さん
僕は仕事で大事なことってやっぱりお互いのコミュニケーションだと思うんですけど、僕が心がけているのは、相手に言われたことは必ず復唱したいという。
相手が「何々してくれ」と言ったら「何々するんやな」とか。そういうふうなことを心掛けていますね。
あとは、僕は出身が大阪なので、どっちかと言ったら現場が和やかに朗らかにというのは常日頃から思っていて。みんなが笑いそうなことは率先してやる!みたいな、そういうのはありますね。
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ありがとうございます。おふたりには、座右の銘や、大事にしていること、言葉はありますか?
鈴木さん
そうですね、若い頃は「一生懸命」だったんですけど・・・歳いくと、60を回ってくるといつも頭によぎるのは「感謝」という言葉ですよね。それに尽きるんじゃないかなと。
だから仕事なんかでもね、自分がリーダーをやっていた時に思ったんです。
今から思ったら、そういう立場におれたのも、こういう若い子らがおってという、こういう奴らに感謝やなっていう心が生まれてくるというか。
だから今こうして62(歳) を回ってもこうやって会社で使ってもらって、いろんな周りの仲間やらと色々とできるというのもやっぱり感謝かなって。
二之宮さん
ここの仕事は一人じゃできないので、やっぱり「協力」ですよね。
協力しないと仕事はできないと思っているので。
とりあえずは教える時に「ありがとう、ごめんやけど」と言って、これやって、あれやってって、やってもらう感じですかね。
だから協力ね、協力して仕事をみんなで成し遂げるみたいな感じですかね。
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いろんな方たちを教えてこられたと思うのですが、時代時代に、若い方たちが変わってきたなあというイメージはありますか。
鈴木さん
自分自身も一応こういう指導的な立場を、昔から会社の方できんでん学園の中での指導員という形ではさせてもらっていたんですけど、自分自身が昔とは全然違うよなあって。
昔はね、イケイケゴーゴーでやっていたのが、今は何か我が子を教えているみたいな感覚というか。そういう感じで若い子らがっていうより、俺もちょっと変わってるよなっていうようなところで指導しているんじゃないかな。
ここに入ってくる若い子らは結構みんな真面目な子らが多くて、できるできへんというのはいろいろあるんですけども。積極的に取り組んでくれている中で、教えている側が僕は変わってきているのかなというような思いはあります。
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株式会社きんでんさんはどのような会社ですか?
二之宮さん
会社が結構いい会社なので。福利厚生とかがちゃんと充実しているし 。
うちらはあちこち行ったりしているからあんまり関わっていないけど。
鈴木さん
入った時は訳も分からず入ってきたんですけど。こうやって60を回って、ここにおらせてもらったというのはやっぱり仲間、そういうものを育ませてもらえたというところで。
僕自身、仲間意識の強い、そういう組織じゃないかなという。
よその会社さんは分からないですけど、自分の知っている限りでは仲間意識の強い会社じゃないかなとは思っています。
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素敵な会社ですね。
ラインマンのお仕事は、我々からしてみたら本当に厳しい仕事というイメージがあるのですが、このお仕事での厳しい面、良い面を教えてください。
二之宮さん
厳しい方が多いけど(笑)。
鈴木さん
厳しいというのは当然室内でエアコンの効いた中で机に座ってする仕事じゃないので、やっぱり表でね、夏・冬、いろんな環境の中でしていかなあかんというところで、特に山の中とかどうしても人里離れたようなところの作業現場が多いので、そういう面では厳しいの
は厳しいですけどね。
厳しいのは厳しいんですけど、送電線を山にずっと張っていったりする時、線の新しいアルミ線なんですけど、光っているんですよね。ある時もう最後の片付けで、夕方、ちょうど山のてっぺんの鉄塔でそこの一番上の高いところにパッと座って。
張り終わった送電線に夕日の光がバーッと当たって、山の間が見える。その姿を見た時には、もうやり切った感というんですかね。やっぱり僕ら建設会社の人間というのは、物を作ってというところがあるので、その時ものすごく自分なりにちょっと感動したというか。
そういう残っていくものを作っているという、その喜びというのは。
だからたまにいろんなところで仕事とは別に車で走ったりして、「ああ、このところやったよな」とか、「ここをこうしてこう線張ったよな」という、いまだにそうやって残っているというところがありますね。
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私は正直、この仕事をさせていただくまでは全然気に留めていなかった世界・・・というと、ちょっと非常に申し訳ないんですけれども。
電気なんて当たり前にコンセントに挿せば点いてしまう。
でも私は今、送電電工に携わる皆さんをPRしていく仕事をさせていただいていると、大きな地震があって停電した時、少し時間が経つとまた電気が戻ってくる。
この時、送電電工業界の方達が今頑張ってくださっているんだなと思うと、電気が点かないことに対する不安とか不満、怒りではなくてむしろ感謝や応援の気持ちに変わって。
救急車とか警察官と同じように、みなさんのこともそういう風に見るべきなんじゃないかなと思ったりしています。
二之宮さんは、このお仕事での良い面、いかがですか。
二之宮さん
鉄塔の上にのぼるので、景色がいいですよね。
場所によっては、神戸の六甲山付近の辺りで仕事をしていると、大阪湾やら神戸の町並みが見えるところがいいですね。
あとはたまに鉄塔が立っているところに保線道といって遊歩道があって、そこを通ったら危ないので別に道を作って、一般の人が通れるように作っているんですけど、そこを歩く人たちが仕事をやっていた時に「ご苦労様です」とか「ありがとうございます」って言ってくれたのは、やっていて良かったなって思いますね。
街中だと「ここ、うちらがやったんやで」みたいなのがあるけど、山の中だとそこまで行くことがないから。街中でやった仕事は結構優越感に浸るっていうか。
自慢できる感じがしますね。
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ちなみに・・・阪神淡路大震災の時はみなさん応援に駆けつけたのですか。
鈴木さん
あの時は、ここから起点に、送電線の調査といいますか、どういう風になっているかということで何回か行ったなあ。
二之宮さん
倒れていないかどうかを確認ですね。
地震の近くのどこに(鉄塔が)あったかを調べてもらって、そこをチェックしていく仕事ですね。
鈴木さん
それと、あれも行ったね。新潟中越地震。
あれは向こうの応援で、鉄塔が何基か倒れて、どうしても雪が降るまでに仮のルートが必要だいうことで、いろんなところから電気屋さんを集めて、僕らも関西から応援には行きました。
二之宮さん
あの時、人も100人近くはいたと思います。
その時の事務所が、よくテレビで流れた子供が助かったあそこの川の手前の方が事務所だったので。目の前に震災の場所があったのはよく覚えていますね。
鈴木さん
現場が山古志村かあっちのほうね。
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確認して、倒れている鉄塔は結構あったのですか。
鈴木さん
阪神淡路の時は、送電線というのはどっちかというと山の方に走っているのが多かったので、どっちかというと町の方が被害があったんですけど。
中越に関しては山の中で土砂崩れだの何だのという感じで鉄塔が倒れているというのがあったので。阪神淡路に関して、鉄塔の傾きはあったんですけど、送電線に関してはそれほどだったんじゃないかな。
実情はちょっと分からないですけど、自分の感覚では。
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今回、鈴木さんが先輩。二之宮さんが後輩のマスターラインマンになりますが、先輩から後輩に、何かひとこといただけますか?
鈴木さん
彼も入ってきた時はほんまに愛想もくそもないやつでしたわ。
それがやっぱりここまで変われてきたのは今ではちょっと想像つかないのですけど。
さっき朝弱いって言ってたでしょう、ほんまに周りの空気が悪くなるんですよ。もう「なんやもうこいつ!」というような感じだったんですけど、やっぱりね、そういう風に変わってこられたので。
今の若い子らにも伝えていってもらえたらなと思いますね。
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二之宮さんは先輩に対して何か感じていることなどはありますか。
二之宮さん
ん〜・・・もう、やりきった感があって、もう任せたよみたいな感じなので、あんまり教わるっていうか、何も言ってくることがないので。
こっちから聞いたら何でも答えてくれるので、別にそこまでは問題はないですね。
なんせ若い頃に普段からね、もう(マスター)ラインマンとか関係なくて、色々教えてもらったりしているから、大体人も分かっているし。鈴木さんがこの会社にいるから、人の人間関係は良かったのかなとは思っていますね。
まあ、いい先輩です。
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最後の質問です。後輩となる現場で働いている人、またはこれからラインマンになる人たちに向けて何か一言いただけますか?
二之宮さん
今言ったのと同じで、入った時はあんまり愛想がなかったので。
ただがむしゃらに仕事をして先にじゃんじゃん覚えて、いちいち文句言われないように仕事をやっていました。
で、上がってくると、やっぱり僕は仕事してなんぼやと思っているので、仕事をしないと何か覚えないと次々ができないと思っているので、それは(後輩に)言うようにしていますね。
今逆に仕事を指導する立場になると、仕事をあんまりしなくなるんですよ。
僕が若い頃から見た先輩、仕切っている人がいるとしたら、「なんでお前はせえへんねん」という、若い僕からすればそう思っていたんだけど。
今度は教える方になると、逆に若いのから「お前がやればいいんちゃうんか」とか思われていたりしないかなとか思ってしまって。
だから僕は仕事をしないと文句は言えないなとは思っているんですよ。何せやってなんぼなので。だからたまに自分でやったりもしますけどね。
今情報が多くなる中で、教え方の面で、自分が手を出したら逆にあかん場合があるかなと思って。遅くても若い子にやらせないと、その子が成長しないんじゃないかなという。
見方が違うから、それを今ずっと考えている。模索している途中なんですよ。
なかなか自分も成長できてないんで、若い子に何か指導するっていうのがうまくできているのかなっていうのが今の課題というか。
説明するだけじゃ納得しないと思うんで、「やって見せて、やらせてみて」というのがあるんだけど、それができるようになりたいかなと。
若い子にはもうちょっと積極的に仕事に参加してほしいなというのはありますね。
「何をするんですか、何をするんですか」って聞くのはいいけど、自分から「こうやりますよ、ああやりますよ、ここはこうではないんですか」って意見を言うてくれれば、「あっ、こいつは考えてやってくれているんだな」というのが分かるので。
そうしたら「間違ってもやってみな」って。何も聞いてこないとこっちから話しかけないといけないので、それだと若い子は成長しないんじゃないかなというのは思っていますね。
鈴木さん
僕も入ってきて、若い頃は先輩からもう、当時そんな時代だったので、職人さん気質の仕事だったんで、口より手が出るみたいな、そういう世界で。
だから当時は「くそ〜」って思うようなこともたくさん経験したんですけど。
でも自分自身、入社してきた時、同世代の中でも割にできない方だったんですよね。
自分自身が「もうちょっと向いてないかな」と思ったこともある。周りと比べると、自分自身が向いている、向いてないと言われたら多分向いてなかったと思うんですけど。
そんな中で(先輩たちに)言われてきて、ふと自分がそういう立場になった時に、あの時にああやって言われていたのが、自分の今の土台になっているんじゃないかなと思わせてもらった時に、その人らに対して感謝の心ができたというか。
植物なんか何でもそうなんですけども、土台というんですか、根っこ。
根っこというのがしっかり張っていると、やっぱり色々な環境の中でも育っていく。そうやって自分は育ててもらえたのかなと。
そういう時があったからこそ、地面に根をしっかり張れて、今こうやって人前に立ってさせてもらえているんじゃないかなって。
若い頃に色々言われてくそ〜となることもあると思うけど、10年、20年先にそれが多分肥やしになって、自分の力の源になるんじゃないかなって。
だから若い子らには色々辛いこともあるだろうし、人間関係なんかで色々思うこともあるけど、自分がその立場になった時に、多分その自分が思っていたことが自分の力に変わるんだというのを若い子らには伝えてあげたいなって。
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今日はすてきなお話をありがとうございました。
鈴木さん
ありがとうございました。
二之宮さん
ありがとうございました。